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国井 庫

 国井(旧姓玉造)庫は文久3年(1863年)7月、上山藩士玉造納光の5男として生まれた。国井庫は藩校を出ると若くして小学校教員となった。


 明治11年6月、久野本、老野森、小関、高木の四か村の合同学校が創立されると、豪農青柳清兵エに懇願され、この合同学校の教員として迎えられた。また、一人暮らしであった国井すよ家の養子となり、青柳の仲介で星野定子と結婚した。


 国井庫は、その後明治法律学校で学び、卒業後山形市で代言人を開き、後に弁護士として活動した。また、明治35年衆議院議員に当選、その後も44年まで4回衆議院議員に当選した。


 国井庫は国会議員として活躍するとともに、県内でも、進歩党立憲国民同志会に所属し、中心となって活動した。


 天童における国井庫の功績の一つが、駅の誘致であった。明治34年に山形まで開通した奥羽本線をさらに北に延伸しようとした時、他の町との間で、駅の誘致運動が活発になった。しかし、国井庫の尽力で現在地に天童駅がつくられることになった。国井庫の働きによって、現在の天童市街の基礎が造られたといえる。


 国井庫は、若木原、尾花沢市大字母袋の開墾に努めるなど、地方の交通や産業の発展に大きく貢献し、大正8年5月に56歳の生涯を閉じた。

 

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