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新関 白黎
村山美術を育てた画人 新関白黎
新関白黎は、明治25年5月22日天童市北目に父伝蔵、母つねの二男として生まれた。本名は伝四郎。明治41年3月、天童小学校高等科を卒業し、画業修業のため上京する。
当初は、菱田春草に魅せられて日本画を描いていたが、途中から洋画に興味をもちはじめ太平洋画会の画学生として洋画の習得に励んだ。
その後、富田温一郎氏に師事し、画業に励んだが度々体調をこわしたりしたため、大正7年画業修業を断念し、帰郷した。
天童に帰った白黎は、生家に居候して病を癒しながら絵を描き続けた。昭和3年に日本海の三瀬付近を描いた洋画「冬日さす漁村」が帝国美術展第2部(洋画)に入選し、新進の画家として認められるようになった。
昭和8年頃から宝樹社が定期的に日本画展を開催するようになったが、白黎はそれを軌道にのせるために尽力した。また、昭和14年に「奥新川の秋」、17年に「紫陽花」をはじめ、4年連続して白日会に入選した。
太平洋戦争が終わり、文化運動がようやく息を吹き返した昭和21年秋、白黎は日本画「宝樹社」の会長西澤芥山(忠右衛門)、秋葉鵬次郎、菅野圭文らと共に、「第1回村山美術展」を開催した。この「村山美術」が戦後の天童における美術文化運動の潮流をなした。
昭和33年4月3日、病気が悪化し天童町立病院で亡くなった。享年66歳であった。白黎は一家を構えることなく生涯を終えた。白黎の葬儀は天童町文化団体によって執り行われ、天童町から文化功労表彰を受けた。
参考 「天童が生んだ人物」 平成15年天童市旧東村山郡役所資料館発刊
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