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鈴木 太助
舞鶴公園の生みの親 鈴木太助鈴木太助は、明治2年11月17日、東村山郡天童町(現天童市小路)に生まれた。
鈴木家は代々、味噌・醤油づくりの老舗であったが、18歳のとき上京、明治学院に入学して英学を学んだ。そして数年後、家業を継ぐために帰郷した。
太助は明治35年ころ、家の裏側にある舞鶴山の開発を決意した。当時舞鶴山には松の木が多く、栗や雑木が繁茂していて、狭い山道がわずかにある民有地であった。
この山の山頂からの眺望のすばらしさに目をつけた太助は、この山を開発し公園化しようと思い立ち、4ヘクタールを買収した。
そして、桜の木2000本、松とモミジ200本を植樹するとともに、2キロメートルにおよぶ散策道路も新設した。また、ベンチや遊具なども設置して町民に開放した。
天童町では太助の了解を得、この地を舞鶴公園として指定した。その後、舞鶴公園はそっくり天童町に寄付され、町当局によって公園の開発が続けられた。
天童市のシンボルとして、桜の咲く季節を中心に、県内外から多くの観光客が訪れ、人間将棋などでにぎわう舞鶴公園は、太助によって開発が始められたものである。
鈴木太助はその後、郡議会議員、町議会議員、天童郵便局長などを務めたが、昭和13年9月に亡くなった。享年68歳であった。
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