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観光・文化
登録有形文化財ほか
正法寺川砂防施設
所在地 大字下荻野戸
所有者 山形県
製作年代 大正時代~昭和時代
指定の区分 登録有形文化財
正法寺川砂防施設は天童市下荻野戸を流れる正法寺川の施設である。大正2年(1913)に起きた大洪水を受けて、山形県が大正11年度(1922)から昭和2年度(1927)にかけて築いたものである。
その内容は、正法寺川北沢第一号石堰堤、同北沢第一号の甲石(かぶといし)堰堤、同北沢第二号石堰堤、同北沢第三号堰堤、同北沢第四号石堰堤、同北沢第五号石堰堤、同北沢第六号石堰堤、同北沢第七号石堰堤、同北沢第八号石堰堤、同北沢第九号石堰堤、同北沢第十号石堰堤、同北沢第十一号石堰堤、同北沢第十二号石堰堤、同北沢第十三号石堰堤、同北沢第十四号石堰堤、同北沢第十五号石堰堤、同北沢第十六号石堰堤、同狸沢第一号石堰堤、同狸沢第二号石堰堤、同狸沢第三号石堰堤、同南沢第五号石堰堤、同南沢第六号石堰堤、同南沢第七号石堰堤、同南沢第八号石堰堤、同南沢第九号の一石堰堤、同南沢第十二号石堰堤、同南沢第十三号石堰堤、同南沢第十四号石堰堤、同北沢鉄線蛇籠水制工、同北沢下流鉄線蛇籠水制工であり、石積の堰堤(堤防)と水制工(川の流れの方向を変えたり弱めたりするもの)からなる。
近代の治山治水に関連する土木構造物であり、国土の歴史的景観に寄与しているものとして、平成17年(2005)に登録有形文化財(建造物)として官報に告示された。
出羽桜美術館旧仲野家住宅主屋・蔵
所在地 一日町
所有者 公益財団法人 出羽桜美術館
製作年代 明治時代・昭和時代初期
指定の区分 登録有形文化財
出羽桜美術館旧仲野家住宅主屋は天童市一日町にあり、木造平屋一部2階建て、瓦葺(かわらぶき)、建築面積311㎡の建物である。寄棟(よせむね)造平入桟瓦葺で桁行(けたゆき)11間、梁間(はりま)5間、正・側・背面に下屋庇(げやひさし)を設ける。左手に土間、板敷きを介して右手に前後各3室の畳敷きを設け、背面に座敷や離れを付設する。商家の風格あるたたずまいを見せている近代和風建築である。明治45年(1912)現地に移築された後は、出羽桜美術館として活用されている。
蔵は、主屋の左手に軒面を揃えて建つ。土蔵造2階建て、瓦葺、建築面積105㎡の建物である。切妻造妻入桟瓦葺で桁行5間、梁間3間、両妻側に蔵前を設ける。外観は漆喰(しっくい)仕上げで、平側に土戸両開の窓を3カ所に穿つ。一階は、書院風座敷となっている。いずれも美術館として活用されている。
造形の規範となっているものとして、平成19年(2007)12月19日に登録有形文化財(建造物)として官報に告示された。
天童神社
天童神社の祭神は少彦名命(すくなびこなのみこと)である。少彦名命は、『古事記』の中に「大己貴命(おおなむちのみこと)とともに国づくりにはげんだ。」とあり、国土創造神として古くから信仰された神である。また、少彦名命が渡ったという常夜(とこよ)の国は、海の彼方の理想境で永遠不変の寿命と穀霊の国である。舞鶴山上のこの天童神社の創建は明らかでないが、国づくりの創造神として、また、豊穣をもたらす穀霊神として、この地方の人々が信仰し祀ったものであろう。のちに南北朝時代、舞鶴山に城を構えた北畠天童丸(きたばたけてんどうまる)も合祀された。
なお、この地に、天から2人の童子が舞い降りたことから「天童」の地名が起こったとの伝説が残っている。
天童古城 主郭跡
天童古城は、全山が中世山城で、県内随一の規模をほこる。
主郭は舞鶴山の頂上とされ、愛宕神社北西にある高さ5mほどの丘陵削り残しの小高台が櫓台跡と思われる。主郭の南北には切岸(人工的に造られた急な崖)がめぐり、東西下には曲輪群(人工的に造られた平場)がとり巻き、さらに段状にいくえにも曲輪が連なる。上北目祖霊社から登る道が大手の城道と思われる。
斯波兼頼の孫である天童氏初代の頼直は、成生の里見氏に養子に入ったとされ、天授元・永和元年(1375)に成生から天童に本拠を移して天童氏を名乗ったことが始まりとされている。その後、南北朝期以来、天童頼久までの10代にわたり天童の地を治めていたが、天正12年(1584)10月に最上義光に攻められ落城した。
平成29年度から令和2年度まで行った発掘調査により、東側にあった岩山の丘陵を削り中央部を広大な平坦地とし、大礫や破砕礫を西側の窪地に埋め、盛土を行い整地することにより主郭部の地形が造られたことがわかり、中央西側には井戸跡と思われる遺構があることも判明した。また、遺物として被熱跡がある礎石や12~13世紀ころのかわらけ、威信財とされる15~16世紀頃の青磁片や白磁片類などが出土した。